珈琲

「珈琲」の字
の考案者



宇田川榕菴(うだがわ ようあん)幼名:重次郎

・寛政10(1798)年3月9日に江戸日本橋の呉服町で生まれる。

・文化8(1811)年7月27日に実父の師であり蘭学者で津山藩医の宇田川玄真の養子となる。

・弘化3(1836)年6月22日に津山藩鍛冶橋邸で没する。墓所は津山藩主松平氏の菩提寺である津山市の泰安寺。

写真は榕菴(右)と妻の墓。妻は薩摩藩医で日本最初の西洋産科医足立長雋の娘世。泰安寺(津山市)でともに眠る。

榕菴が文政10(1827)年に書いた「親類書」には、

松平越後守家来
 高50石 生国武蔵 宇田川榕菴

となっている。
松平越後守は津山藩主。当時日本橋を中心とした地域は、武蔵国豊嶋郡に相当する。

榕菴の実父、中島道義は越後国蒲原郡見付(新潟県阿賀野市・旧安田町)の漢方医中島理斎の息子で江沢養樹(初代、上総国(千葉県)出身)の養子となる。

江戸で生まれ育ち実父は越後の人であった榕菴は宇田川家の養子となった後は、津山で多くを過ごし、津山という故郷を持ったことを大変喜んでいたと伝わる。

その故郷・津山には榕菴の孫も同じく泰安寺に眠っている。

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